東方見聞録のジパングとは?マルコ・ポーロが記した黄金の国と日本の関係を解説
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「黄金の国ジパング」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。マルコ・ポーロが著した『東方見聞録』に登場するこの神秘的な国は、日本を指すとされています。
しかし、なぜ日本が「黄金の国」と呼ばれたのか、本当にジパングは日本なのか、疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。
本記事では、東方見聞録に記されたジパングの内容と、日本との関係について詳しく解説します。
Contents
東方見聞録のジパングとは?マルコ・ポーロが記した黄金の国
東方見聞録に登場する「ジパング」は、当時のヨーロッパにて日本の存在を知らしめた記述として知られています。
マルコ・ポーロがどのようにして日本を知り、なぜ黄金の国として紹介したのか、その背景を探ってみましょう。
東方見聞録でジパングとして日本を紹介したのはマルコ・ポーロ
マルコ・ポーロは、1254年頃にイタリアのヴェネツィア共和国で生まれ、1324年に亡くなった商人であり冒険家です。
ヴェネツィアは当時、地中海貿易の中心地として繁栄を極めており、マルコの家族も代々商業に携わる裕福な商家でした。父のニッコロ・ポーロと叔父のマッフェオ・ポーロは、中東貿易で財を成した敏腕商人として知られていました。
約24年間にわたる旅の中で、彼は中国でフビライ・ハン(元の皇帝)に仕え、アジア各地の情報を収集。1295年にヴェネツィアに帰還後、ジェノヴァとの戦争で捕虜となった際、獄中で同房のルスティケロ・ダ・ピサに旅の体験を語り、それが『東方見聞録』として記録されました。
この書物の中で、マルコ・ポーロは日本を「ジパング」として世界で初めて紹介。
当時のヨーロッパ人にとって、極東の島国は完全に未知の存在でしたが、彼の記述によって「黄金に満ちた豊かな国」というイメージが広まったのです。
ジパングの名前の由来と意味
「ジパング」という名称は、中国語の「日本国(ジッポングォ)」に由来するとされています。
マルコ・ポーロは実際に日本を訪れたことはなく、中国滞在中に聞いた情報をもとに記述しました。当時の中国では、日本のことを「日本国」と呼んでおり、その発音がヨーロッパ風に変化して「ジパング(Cipangu)」となったと考えられています。
また、マルコ・ポーロは「ジパングは大陸から1,500マイル(約2,400km)離れた東の海に浮かぶ島国」と記述。
この地理的な位置関係は、実際の日本の位置とほぼ一致しており、彼が得た情報の正確性を示しています。
東方見聞録が書かれた時代背景
東方見聞録が書かれた13世紀後半は、モンゴル帝国が最盛期を迎えていた時代でした。
チンギス・ハンによって建国されたモンゴル帝国は、その孫フビライ・ハンの時代にはユーラシア大陸の大部分を支配。
この巨大な帝国の存在により、東西の交流が活発化し、シルクロードを通じた貿易も盛んに行われていました。
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日本では鎌倉時代にあたり、1274年と1281年には元寇(蒙古襲来)が起きています。つまり、マルコ・ポーロがフビライ・ハンに仕えていた時期と、日本が元の侵攻を受けた時期は重なっているのです。この歴史的な出来事も、中国でジパングへの関心が高まった要因のひとつといえるでしょう。
東方見聞録に記されたジパングの内容
東方見聞録には、ジパングについて具体的でありながら幻想的な記述が数多く含まれています。その内容は事実と誇張、そして誤解が入り混じった興味深いものです。
黄金で覆われた宮殿の記述
マルコ・ポーロが記した有名な記述は、ジパングの宮殿に関するものです。
「王の宮殿は純金で覆われており、私たちが教会の屋根を鉛で覆うように、宮殿の屋根はすべて純金で覆われている」という一節は、ヨーロッパ人の想像力を大いにかき立てました。
さらに、「宮殿の床には、厚さ2指分の金の板が敷き詰められており、窓も金でできている」という記述も。部屋の中には真珠が敷き詰められているとも書かれており、まさに黄金と宝石に満ちた夢のような宮殿として描写されています。
このような豪華絢爛な描写は、当時のヨーロッパ人にとって信じがたいものでしたが、同時に強い憧れの対象ともなりました。
ジパングの人々の特徴と文化
東方見聞録では、ジパングの人々についても詳しく記述されています。
「ジパングの人々は外見が良く、礼儀正しい。偶像崇拝者(仏教徒)であり、独立した国家を持っている」という記述は、実際の日本人の特徴をある程度正確に表現しています。
また、「死者を火葬にする習慣がある」という記述もあり、当時の日本の埋葬習慣と一致。仏教の影響を受けた火葬文化は、キリスト教圏のヨーロッパでは珍しい習慣だったため、特筆すべき事項として記録されたのでしょう。
食人文化など誤解を招いた記述
一方で、東方見聞録には明らかに事実と異なる記述も含まれています。
最も問題となったのは「戦争で捕虜を捕らえると、身代金を払えない者は殺して食べる」という食人文化の記述です。日本の歴史において、このような習慣が広く行われていた証拠はありません。
また、「ジパングには黒コショウや白コショウが豊富で、香木にも恵まれている」という記述も。これらの香辛料は熱帯地域で産出されるもので、温帯の日本では栽培されていません。この記述は、東南アジアや当時取引の活発だった中国の情報と混同された可能性が高いでしょう。
ジパングが日本とされる理由と根拠
東方見聞録のジパングが日本を指すという説には、いくつかの具体的な根拠があります。歴史的な建造物や文化的な共通点から、その関連性を探ってみましょう。
中尊寺金色堂との関連性
マルコ・ポーロが描いた「黄金の宮殿」のモデルとして最も有力視されているのが、岩手県平泉の中尊寺金色堂です。
12世紀に奥州藤原氏によって建立されたこの建物は、堂の内外に金箔が施され、まさに黄金に輝く建造物でした。螺鈿細工や蒔絵、象牙などの装飾も施され、当時の日本における最高峰の工芸技術が結集されています。
中国との交易を通じて、この豪華な金色堂の存在は大陸にも知られていたと考えられます。日本から輸出された砂金や金製品とともに、「日本には金で覆われた建物がある」という情報が中国に伝わり、それがマルコ・ポーロの耳に入った可能性が高いでしょう。
中尊寺金色堂が黄金宮殿のモデルという説はあくまでも仮説であり、確定的な証拠はありません。マルコ・ポーロは実際に日本を訪れていないため、中国で聞いた伝聞が基になっています。
仏教文化と埋葬習慣の一致
東方見聞録に記された宗教や習慣の記述も、日本との関連性を示す記述といえるでしょう。
「偶像崇拝者」という表現は、当時のキリスト教徒から見た仏教徒を指す言葉でした。日本は6世紀に仏教が伝来して以来、仏教文化が深く根付いており、マルコ・ポーロの記述と一致します。
また、火葬の習慣についての記述も重要です。仏教の影響により、日本では平安時代から火葬が行われるようになりました。これは土葬が一般的だったヨーロッパやイスラム圏とは大きく異なる習慣であり、東アジアの仏教国の特徴といえます。
元寇とジパング征服の試み
ジパングが日本である最も明確な証拠は、元寇に関する記述です。
東方見聞録には、フビライ・ハンがジパング征服を試みたが失敗したという記述があります。これは明らかに1274年の文永の役と1281年の弘安の役を指しています。
マルコ・ポーロは「皇帝は大艦隊を送ったが、嵐によって多くの船が沈み、征服は失敗に終わった」と記述。実際に弘安の役では、いわゆる「神風」と呼ばれる暴風雨により元軍が壊滅的な打撃を受けました。
この歴史的事実との一致は、ジパングが日本を指している最も確実な証拠といえるでしょう。マルコ・ポーロがフビライ・ハンに仕えていた時期に起きた出来事であり、彼が直接その情報に触れる機会があったはずです。
ジパングが日本ではないとする説と矛盾点
一方で、東方見聞録のジパングは日本ではないという説も存在します。記述の中には明らかに日本の実情と合わない部分があり、これらの矛盾点について検証してみましょう。
マルコ・ポーロは日本を訪れていない
最も重要な点は、マルコ・ポーロ自身が日本を訪れたことがないという事実です。
彼のジパングに関する記述は、すべて中国で聞いた伝聞情報に基づいています。当時の中国商人たちから聞いた話や、モンゴル軍の遠征に関する報告などを総合して、ジパングの姿を描き出したのです。
伝聞による情報収集の限界は明らかで、事実が誇張されたり、他の地域の情報と混同されたりする可能性は十分にあります。
実際、東方見聞録の他の記述でも、マルコ・ポーロが直接訪れていない地域については、不正確な情報が含まれていることが知られています。
このため、ジパングの記述も複数の地域の情報が混在している可能性があるという指摘もあります。
香辛料や熱帯の特徴の記述
東方見聞録には、明らかに日本の気候や産物と合わない記述が含まれています。
「ジパングには黒コショウや白コショウが豊富である」という記述は、温帯の日本では不可能です。コショウは熱帯地域でしか栽培できない香辛料であり、当時の日本では生産されていませんでした。
また、「香木に恵まれている」という記述も同様です。沈香や白檀といった高級香木は、東南アジアやインドが主な産地であり、日本では産出されません。
これらの記述から、一部の研究者は「ジパングは日本ではなく、台湾や東南アジアの島々を指しているのではないか」という説を唱えています。マルコ・ポーロが複数の島国の情報を混同した可能性も否定できません。
伝聞と想像による誇張
東方見聞録の記述には、明らかな誇張や想像が含まれています。
黄金の宮殿の描写はあまりにも壮大で、「床に厚さ2指分の金の板が敷かれている」「窓も金でできている」といった記述は、現実的とは思えません。中尊寺金色堂は確かに金箔で覆われていましたが、マルコ・ポーロの記述ほど極端ではありませんでした。
また、食人文化の記述も、当時のヨーロッパ人が抱いていた東洋への偏見や恐怖心が反映された可能性があります。未知の土地に対する誇張された噂話が、事実として記録されてしまったのかもしれません。
これらの誇張は、東方見聞録が単なる地理書ではなく、読み物としての娯楽性も重視していたことを示しています。
黄金の国ジパングが世界に与えた影響
マルコ・ポーロが描いた「黄金の国ジパング」は、単なる地理的な情報を超えて、その後の世界史に大きな影響を与えました。
この幻想的なイメージが、どのような歴史的展開をもたらしたのか見ていきましょう。
大航海時代への影響
東方見聞録に描かれたジパングの富は、ヨーロッパの探検家たちの冒険心を大いに刺激しました。
15世紀から始まった大航海時代において、多くの探検家がジパングを目指しました。最も有名なのはクリストファー・コロンブスです。彼は東方見聞録の愛読者であり、西回りでアジアに到達しようとした際、ジパングの発見も目的のひとつでした。
コロンブスは1492年にアメリカ大陸に到達しましたが、当初はそこがアジアの一部だと信じていました。彼は死ぬまで、自分がジパングの近くまで到達したと考えていたといわれています。
このように、ジパングという幻想的な目標が、結果的に新大陸の発見という世界史的な出来事につながったのです。
日本の金産出と経済への影響
マルコ・ポーロの「黄金の国」という記述は、誇張はあったものの、日本が金の産出国であることは事実でした。
古代から日本各地で砂金が採取され、特に東北地方は豊富な金資源を有していました。奥州藤原氏の繁栄も、この金によって支えられていたのです。その後も佐渡金山や伊豆の金山など、日本各地で金の採掘が行われました。
16世紀になると、日本の金はさらに重要な役割を果たします。戦国時代から江戸時代にかけて、金は国内経済の基盤となり、また国際貿易でも重要な輸出品となりました。
特に16世紀後半から17世紀前半にかけては、日本は世界有数の金・銀の産出国として、国際経済に大きな影響を与えていたのです。
まとめ
東方見聞録に記された「黄金の国ジパング」は、マルコ・ポーロが中国で聞いた日本に関する情報をもとに描かれたものでした。
実際に日本を訪れていないため、誇張や誤解も含まれていましたが、中尊寺金色堂の存在や豊富な金産出、仏教文化など、多くの点で実際の日本と一致する記述も含まれています。
そして興味深いことに、700年前にマルコ・ポーロが憧れた金の価値は、現代においても変わることがありません。むしろ、経済の不確実性が高まる中で、金は「安全資産」としての価値をますます高めています。
現在、金価格は歴史的な高値圏で推移しており、多くの投資家が資産保全の手段として金を選んでいます。
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