マルコ・ポーロは何をした人か時代別で簡単に解説!日本を「黄金の国」と評した背景や東方見聞録はいつ?

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「マルコ・ポーロって結局何をした人なの?」「東方見聞録はいつ書かれて、どんな内容が書いてあるの?」と気になっている方は多いかもしれません。
マルコ・ポーロは13世紀のイタリア・ヴェネツィアに生まれた商人であり、24年間にわたってアジアを旅した冒険家です。彼が口述した『東方見聞録』は、日本を「黄金の国ジパング」として世界に初めて紹介し、後のコロンブスによる大航海時代の原動力となりました。
この記事では、マルコ・ポーロが成し遂げた功績を時代別にわかりやすく整理し、フビライ・ハンとの関係や『東方見聞録』が生まれた経緯、さらには現代の私たちの生活への影響まで網羅的に解説します。
「歴史上最も有名な冒険家」と称されるマルコ・ポーロの全貌を理解したい方はぜひ最後までご覧ください。

Contents
- マルコ・ポーロとは?【何時代の人物かを簡単に】
- マルコ・ポーロが成し遂げた3つの偉業【何をしたかを簡単に解説】
- 『東方見聞録』の4巻構成と記述内容【マルコ・ポーロが伝えたアジアの姿】
- フビライ・ハンとの運命的な出会い
- 『東方見聞録』はいつ、どのように生まれたのか?
- マルコ・ポーロが日本に与えた影響【黄金の国の由来】
- マルコ・ポーロの死因と最期
- 現代に受け継がれるマルコ・ポーロの遺産
- マルコ・ポーロゆかりの品々を査定のプロが解説
- マルコ・ポーロに関するよくある質問
- Q. マルコ・ポーロは何をした人ですか?
- Q. マルコ・ポーロは何時代の人物ですか?日本では何時代にあたりますか?
- Q. 『東方見聞録』はいつ、どのように書かれましたか?
- Q. なぜマルコ・ポーロは『東方見聞録』を自分で書かなかったのですか?
- Q. マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのですか?
- Q. マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」と記した根拠は何ですか?
- Q. マルコ・ポーロはなぜフビライ・ハンに重用されたのですか?
- Q. マルコ・ポーロは何歳で東方への旅に出発しましたか?
- Q. マルコ・ポーロはどのくらいの距離を旅しましたか?
- Q. マルコ・ポーロの旅は何年間続きましたか?
- Q. マルコ・ポーロの死因は何ですか?
- Q. 『東方見聞録』はコロンブスにどのような影響を与えましたか?
- Q. マルコ・ポーロが伝えた「紙幣」とはどのようなものでしたか?
- Q. 『東方見聞録』の原題は何ですか?なぜ『東方見聞録』と呼ばれるのですか?
- Q. マルコ・ポーロは日本に来たことがありますか?
- Q. マルコ・ポーロの『東方見聞録』は何カ国語に翻訳されましたか?
- Q. マルコ・ポーロが元朝で就いた役職は何ですか?
- Q. マルコ・ポーロの父と叔父はどのような人物でしたか?
- Q. マルコ・ポーロには家族がいましたか?
- Q. マルコ・ポーロの名前を冠した現代のものには何がありますか?
- まとめ
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マルコ・ポーロとは?【何時代の人物かを簡単に】

700年以上前の中世ヨーロッパに生きたマルコ・ポーロ。マルコ・ポーロが活躍した時代背景を知ることで、彼がなぜ現代でも高く評価されているのか、どうしてこれほど壮大な冒険が可能だったのかが理解できます。
日本の鎌倉時代と重なるこの激動の時代を、わかりやすく解説します。
1254年〜1324年を生きた中世ヨーロッパの商人
マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、1254年頃にイタリアのヴェネツィア共和国で生まれ、1324年に同地で亡くなった商人であり冒険家です。彼が生きた約70年間は、まさに世界史の転換点とも呼べる激動の時代でした。
ヴェネツィアは当時、地中海貿易の中心地として繁栄を極めており、マルコ・ポーロの家族も代々商業に携わる裕福な商家でした。父のニッコロ・ポーロと叔父のマッフェオ・ポーロは、中東貿易で財を成した敏腕商人として知られていました。
マルコ・ポーロが生きた時代の金の役割については、以下の記事でも詳しく解説しています。
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・金の価値にまつわる世界や日本の歴史を解説!金の価値を左右するポイントも
鎌倉時代の日本と同じ時代背景
マルコ・ポーロが活躍した13世紀後半から14世紀前半は、日本では鎌倉時代にあたり、ちょうど源頼朝が鎌倉幕府を開いてから約100年が経過し、武士による政治が安定していた時期です。
興味深いことに、マルコ・ポーロが中国でフビライ・ハンに仕えていた約17年間のうち、1274年と1281年には、そのフビライ・ハンが日本に侵攻した「元寇」が起きています。つまり、マルコ・ポーロは日本の歴史にも間接的に関わった人物なのです。
日本が「黄金の国」と呼ばれた理由については、以下の記事で詳しく解説しています。
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モンゴル帝国の全盛期に活躍
マルコ・ポーロの生涯を語る上で欠かせないのが、当時のモンゴル帝国の存在です。13世紀は、チンギス・ハンによって建国されたモンゴル帝国が、ユーラシア大陸の大部分を支配していた時代でした。
特にマルコ・ポーロが仕えることになるフビライ・ハンは、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、中国を統一して「元」王朝を築いた偉大な君主。モンゴル帝国がユーラシア大陸を支配していたからこそ、マルコ・ポーロの壮大な旅が実現できました。
マルコ・ポーロが成し遂げた3つの偉業【何をしたかを簡単に解説】
「マルコ・ポーロは何をした人?」この疑問に答えるため、彼の人生で最も重要な3つの功績を整理しました。24年間の大冒険から『東方見聞録』の執筆まで、歴史に名を刻んだ理由を具体的に見ていきましょう。
24年間にわたる15,000kmの大冒険
マルコ・ポーロの最大の功績は、24年間(1271年〜1295年)に及ぶ東方への大旅行です。17歳でヴェネツィアを出発したマルコ・ポーロは、父と叔父とともに約15,000キロメートルの旅路を踏破しました。
| 項目 | 内容 |
| 出発年・帰国年 | 1271年出発、1295年帰国(24年間) |
| 出発時の年齢 | 17歳 |
| 同行者 | 父ニッコロ・ポーロ、叔父マッフェオ・ポーロ |
| 総移動距離 | 約15,000km |
| 往路のルート | ヴェネツィア→中東→シルクロード→中央アジア→ゴビ砂漠→上都 |
| 復路のルート | 泉州→東南アジア→インド洋→ペルシア湾→陸路→ヴェネツィア |
| 中国滞在期間 | 約17年間 |
マルコ・ポーロが移動した15,000キロメートルという距離は、現代でいえば日本からブラジルまでの直線距離に相当します。飛行機も自動車もない13世紀に、徒歩と馬と船だけでこの距離を移動したマルコ・ポーロの旅は、想像を絶する過酷さだったはずです。
過酷な旅路の中で、マルコ・ポーロは各地で珍重される金を目にしました。シルクロード沿いの地域で金がどのように扱われていたかについては、以下の記事でも詳しく解説しています。
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・金の歴史や加工技術について解説!現在の価値についてもご紹介
フビライ・ハンに17年間仕えた外交官としての活躍
マルコ・ポーロが単なる旅行者ではなく、歴史に名を刻んだ理由の一つが、フビライ・ハンに仕えた17年間の活動です。皇帝の厚い信頼を得た彼は、重要な外交使節として中国各地や周辺諸国に派遣されることとなります。
フビライ・ハンは、マルコ・ポーロの語学の才能と鋭い観察力に大いに感嘆しました。彼は派遣先の政治情勢や経済状況、文化的特徴を詳細に報告するだけでなく、現地で見聞きした興味深い逸話や珍しい習慣についても皇帝に伝えています。
17年間の外交使節としての経験により、マルコ・ポーロは当時のアジア各地の実情を誰よりも深く理解する人物へと成長しました。ヴェネツィアの商人の息子だった少年が、モンゴル帝国という世界最大の帝国で要職に就く姿は、まさに立身出世の物語そのものです。
『東方見聞録』でアジアの文化をヨーロッパに伝達
マルコ・ポーロの名を不朽のものにした『東方見聞録』(原題:『世界の記述』)は、1298年頃に執筆されました。『東方見聞録』誕生の経緯は、マルコ・ポーロが戦争捕虜となるという予想外の出来事から始まりました。
1295年にヴェネツィアに帰還したマルコ・ポーロは、その後ジェノヴァとの戦争に従軍しますが、不運にも捕虜となって投獄されてしまいます。しかし、この獄中生活が『東方見聞録』誕生のきっかけとなったのです。
牢獄で出会った作家ルスティケロ・ダ・ピサに、マルコ・ポーロは自らの冒険談を語り聞かせました。ルスティケロがこれを物語として整理し、フランス語で記録したものが『東方見聞録』となったのです。
この書物は瞬く間にヨーロッパ中で評判となり、様々な言語に翻訳されました。現在までに約140種類の写本が発見されており、当時いかに多くの人々に愛読されたかが分かります。
参考:東方見聞録
東方見聞録で描かれた「黄金の国ジパング」については、以下の記事で詳しく解説しています。
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・東方見聞録のジパングとは?マルコ・ポーロが記した黄金の国と日本の関係を解説
『東方見聞録』の4巻構成と記述内容【マルコ・ポーロが伝えたアジアの姿】

『東方見聞録』は全4巻で構成され、マルコ・ポーロがアジア各地で見聞した情報が体系的にまとめられています。1巻目には中東から中央アジアを経て中国に至るまでの旅程が、2巻目には元朝の皇帝フビライ・ハンと中国の文化について詳細な記録が残されました。
3巻目では日本(ジパング)やインド、東南アジア、アフリカの情報が、4巻目ではモンゴルやロシアなどの極北地域についての記述が収められています。『東方見聞録』は単なる旅行記ではなく、当時のヨーロッパ人がまったく知らなかったアジアの政治・経済・文化を伝える百科事典のような役割を果たしました。
ヨーロッパ人を驚愕させた中国の先進技術
マルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、当時のヨーロッパには存在しなかった中国の先進技術を数多く紹介しています。最も衝撃的だったのは「紙幣」の存在であり、ヨーロッパでは金貨や銀貨が主流だった時代に、紙切れが通貨として流通している事実は信じがたいものでした。
また、マルコ・ポーロは「石炭」の使用についても詳しく記録しています。中国では石炭を燃料として使い、風呂を沸かしたり調理に利用していました。しかし、当時のヨーロッパ人は石炭の存在すら知らなかったため、「燃える黒い石」という記述は作り話だと思われました。
郵便制度(駅伝制度)の存在も『東方見聞録』で紹介された驚きの情報です。モンゴル帝国では広大な領土を結ぶ交通網が整備され、緊急の連絡は1日に400キロ以上の距離を伝達できました。ヨーロッパでこのような組織的な通信網が整備されるのは、マルコ・ポーロの時代から数百年後のことになります。
『東方見聞録』に記述されなかった中国文化の謎
『東方見聞録』には、マルコ・ポーロが本当に中国に行ったのかを疑わせる「記述の欠落」が存在します。万里の長城、箸、茶、纏足(てんそく)といった、外国人が興味を持つであろう中国の特徴的な文化が『東方見聞録』には一切登場しません。
マルコ・ポーロが万里の長城について触れていない理由としては、元朝時代にはすでに長城が軍事的意味を失っており、注目に値しなかった可能性が指摘されています。また、モンゴル人の宮廷で生活していたマルコ・ポーロは、漢民族の日常文化に接する機会が限られていたとも考えられます。
一方で、『東方見聞録』に記述された杭州(キンサイ)の繁栄ぶりや揚州の行政機構など、後の研究で正確性が証明された記述も数多く存在します。マルコ・ポーロの中国訪問をめぐる論争は現在も続いていますが、『東方見聞録』がアジアに関する貴重な一次資料であることに変わりはありません。
フビライ・ハンとの運命的な出会い
わずか17歳で故郷を離れ、世界最大の帝国の皇帝に仕えることになったマルコ・ポーロ。この運命的な出会いが、彼の人生を決定づけました。なぜ外国人の青年が、モンゴル帝国で重用されるようになったのでしょうか。
17歳での壮大な旅の始まり
1271年、マルコ・ポーロの人生を決定づける瞬間がやってきました。父ニッコロ・ポーロと叔父マッフェオ・ポーロが2度目の東方貿易に向かう際、彼らは17歳のマルコを同行させることを決めたのです。
この決断の背景には、フビライ・ハンからの特別な要請がありました。父と叔父は以前の旅でフビライ・ハンに謁見し、ローマ教皇への書簡を託されていました。皇帝は「キリスト教に精通した100人の賢者」の派遣を求めていたのです。
しかし、実際に同行できたのは2人の修道士のみで、彼らも旅の途中で恐れをなして引き返してしまいました。結果的に、マルコ・ポーロ一行3人だけが、この歴史的な旅を完遂することになったのです。
皇帝に認められた才能と語学力
1274年の夏、3年半に及ぶ過酷な旅路を経て、マルコ・ポーロたちはついに上都でフビライ・ハンに謁見しました。このとき、若きマルコ・ポーロの才能が皇帝の目に止まったのです。
マルコ・ポーロは類稀な語学の才能を持っており、短期間でモンゴル語、中国語、ペルシア語を習得。また、異文化に対する深い理解力と優れた観察眼を備えていたため、フビライ・ハンは彼を特別に重用するようになりました。
皇帝がマルコ・ポーロを気に入った理由は、彼の報告の仕方にもあります。他の使者が簡潔な報告しかしないのに対し、彼は現地の風習や興味深い出来事を詳細に、そして面白おかしく語ったのです。これが、後の『東方見聞録』の原型を形作ったと考えられます。
中国各地を巡った特別な使者としての役割
フビライ・ハンの信頼を得たマルコ・ポーロは、帝国の重要な使者として様々な任務を与えられました。彼は中国国内はもちろん、東南アジアやインドにまで派遣され、各地の政治情勢や経済状況を調査しました。
特に印象的だったのは、現在の雲南省やミャンマー地域への派遣です。マルコ・ポーロはこれらの地域で、ヨーロッパでは見たことのない珍しい動物や植物、独特な文化に触れ、象を使った軍事作戦や、現地の金採掘の様子なども詳細に観察し、後に『東方見聞録』に記録しています。
また、マルコ・ポーロは一時期、現在の江蘇省揚州の総督も務めたとされています。外国人でありながら中国の地方行政を任されるという異例の待遇は、フビライ・ハンがいかにマルコを信頼していたかを物語るエピソードに他なりません。
『東方見聞録』はいつ、どのように生まれたのか?
『東方見聞録』はいつ、どのように生まれたのかを解説します。世界的な名著『東方見聞録』の誕生は、意外にも牢獄から始まりました。捕虜となったマルコ・ポーロが、同房で作家と出会ったことで生まれたこの奇跡の書物。その制作過程と後世への影響を詳しく探ります。
獄中での偶然の出会いから誕生
1295年、24年ぶりに故郷ヴェネツィアに戻ったマルコ・ポーロでしたが、彼の冒険はまだ終わっていませんでした。当時、ヴェネツィアは商業上のライバルであるジェノヴァと激しい戦争を繰り広げており、マルコ・ポーロも愛する故郷のために戦争に参加したのです。
しかし、1298年のクルツォラ島の海戦でヴェネツィア軍は敗北し、マルコ・ポーロは捕虜となってジェノヴァの牢獄に収監されてしまいました。この不運な出来事が、皮肉にも世界史に残る名作を生み出すきっかけとなったのです。
牢獄で彼が出会ったのは、ルスティケロ・ダ・ピサという作家でした。ルスティケロは『アーサー王の円卓の騎士』などの騎士道物語で知られる人物で、物語を魅力的に構成する技術に長けていました。
ルスティケロとの共同作業
獄中で時間を持て余していたマルコ・ポーロは、同房のルスティケロに自分の東方での体験を語り始めました。ルスティケロは、彼の話があまりに興味深く、また詳細であることに驚嘆したといいます。
2人は協力して、マルコ・ポーロの体験談を一つの物語として整理することにしました。マルコが記憶を頼りに語る内容を、ルスティケロが文学的な技巧を駆使して魅力的な物語に仕上げていったのです。
この共同作業により生まれたのが『東方見聞録』です。単なる旅行記ではなく、読み物としても非常に面白い作品に仕上がったのは、ルスティケロの文学的才能があったからこそといえます。
1298年頃の執筆とその後の影響
『東方見聞録』は1298年頃に完成し、当初はフランス語で書かれました。しかし、その内容があまりに驚くべきものだったため、多くの人は「作り話」だと考えました。紙幣の流通、石炭の燃料使用、組織的な郵便制度など、当時のヨーロッパには存在しなかった技術や制度の記述が、ヨーロッパ人には信じがたいものだったのです。
時代が進むにつれてマルコ・ポーロの記述の正確さが証明されていき、15世紀以降の大航海時代には『東方見聞録』が探検家たちの必読書となりました。
クリストファー・コロンブスは『東方見聞録』の熱心な愛読者であり、マルコ・ポーロが記した「黄金の国ジパング」への到達を目指して西回り航路に挑戦しました。『東方見聞録』はコロンブスによるアメリカ大陸到達の原動力となり、大航海時代の幕開けに貢献しました。
マルコ・ポーロが日本に与えた影響【黄金の国の由来】
「黄金の国ジパング」として日本を世界に紹介したマルコ・ポーロ。マルコ・ポーロが何をしたのかと日本でも多くの関心を集める理由は「黄金の国ジパング」という記述にあります。この記述が生まれた背景には、古くから続く金への憧憬がありました。700年前から変わらない金の魅力と、現代における資産価値について考察します。
「ジパング(黄金の国)」として世界初紹介
マルコ・ポーロが日本史に与えた最大の影響は、日本を「ジパング」として世界で初めて文献に紹介したことです。『東方見聞録』における日本の記述は、ヨーロッパ人の東方への憧れを掻き立てる決定的な役割を果たしました。
- 中国大陸から東へ1,500マイル(約2,400km)離れた海上の島国
- 住民は白い肌を持ち、礼儀正しく美しい容姿をしている
- 黄金の宮殿があり、屋根は純金で覆われ、床にも金板が敷かれている
- 真珠が豊富に産出され、赤い真珠も存在する
- 偶像崇拝者(仏教徒)であり、独自の言語を持つ
- モンゴル帝国の支配を受けていない独立国
マルコ・ポーロによる「黄金の宮殿」の記述は、後の大航海時代においてコロンブスをはじめとする探検家たちの冒険心に火をつけることになります。実際にコロンブスは「黄金の国ジパング」到達を目標の一つとして掲げ、1492年の航海に出発しました。
中尊寺金色堂の伝聞が生んだ黄金のイメージ
マルコ・ポーロが描いた「黄金の宮殿」のイメージは、実は平泉の中尊寺金色堂に関する伝聞がもとになっていると考えられています。12世紀に奥州藤原氏によって建立されたこの建物は、内外に金箔が施された豪華絢爛な仏堂でした。
当時の中国では、日本から砂金や金製品が輸入されており、「日本は金の産地」という認識が広まっていました。マルコ・ポーロはこうした情報と、中尊寺金色堂のような具体的な建造物の話を組み合わせて、魅力的な「黄金の国」の物語を創り上げたのです。
マルコ・ポーロによる「黄金の国」の記述は、必ずしも誇張とはいえません。日本は古代から金の産出国として知られ、奥州(現在の東北地方)では豊富な砂金が採取されていたため、中国では「日本は金が豊富な国」という認識が広まっていました。マルコ・ポーロの「黄金の国」という表現は、ある意味で日本の実情を正確に表現していると解釈できます。
参考:中尊寺
古代から現代まで続く金の歴史については、以下の記事で詳しく解説しています。
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・金の歴史とは?古代文明から現代まで続く世界と日本の歴史を紹介
700年前から変わらない金の魅力と価値
マルコ・ポーロが記述した「黄金への憧れ」は、700年以上経った現在でも人々の心を捉え続けています。なぜなら、金という貴金属が持つ本質的な価値と魅力は、時代を超えて変わることがないからです。
13世紀の中国でも、ヨーロッパでも、金は最も価値のある資産として認識されていました。金が人々を魅了し続ける理由は、美しさだけでなく、錆びない不変性、採掘量が限られる希少性、そして世界中で認められる普遍的な価値にあります。
現代においても、金は「安全資産」として世界中の投資家に愛され続けています。経済の不確実性が高まるほど、金の価値は見直される傾向にあり、マルコ・ポーロの時代から現代まで、金が人々を魅了し続ける理由がここにあるのです。
金の価値と歴史的背景については、以下の記事で詳しく解説しています。
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・黄金文明とは?古代から現代まで「金」が築いた歴史と価値や売却の基礎知識までご紹介
13世紀から現代まで、金は人々を魅了し続ける究極の資産
マルコ・ポーロが『東方見聞録』で描いた黄金への憧憬は、現代の私たちにも通じるものがあります。彼が生きた13世紀から現在まで、金は一貫して「価値の保存手段」として機能し続けてきました。
当時のモンゴル帝国では、金が国際的な決済手段として使われています。シルクロードの商人たちは、金貨や金塊を持って各地を移動し、どこでもそれが価値を持つことを知っていました。この普遍性こそが、金の最大の魅力なのです。
現代においても、金は世界中で価値が認められる数少ない資産の一つです。どの国の通貨よりも安定しており、インフレーションや経済危機に対する強い耐性を持っています。マルコ・ポーロが憧れた黄金の魅力は、まさに私たちが今日でも実感できる現実です。
金相場の歴史と変遷については、以下の記事で詳しく解説しています。
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・金相場の歴史からわかる流れとは?30年の価格推移と高騰理由について解説
時代を超えて価値を保ち続ける金の安定性
700年以上前にマルコ・ポーロが記録した金への憧憬を見ると、金という貴金属の驚くべき安定性が浮き彫りになります。政治体制が変わり、通貨が変わり、技術が進歩しても、金の本質的価値は変わることがありません。
そういった背景があり、近年の世界情勢を見ても金の重要性はますます高まっています。
金価格の推移と将来展望については、以下の記事で詳しく解説しています。
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・金価格の推移を30年前から2025年現在まで紹介!過去チャートと歴史的な出来事の影響とは?
- おたからや査定員のコメント
コロナ禍や地政学的リスクの高まりにより、多くの投資家が金を「安全な避難先」として選択しています。その結果、金の価格は過去最高水準まで上昇しており、今後もさらなる上昇が期待されています。もしもあなたの手元に眠っている金製品があるなら、それはマルコ・ポーロが憧れた「黄金」と同じ、時代を超えた価値を持つ貴重な資産です。

マルコ・ポーロの死因と最期
24年間の大冒険を経て故郷に戻ったマルコ・ポーロは、どのような晩年を過ごしたのでしょうか。商人として成功を収め、家族に恵まれた彼の最期の日々と、現代まで語り継がれる臨終の言葉について紹介します。
1324年1月8日、ヴェネツィアで病死
1299年にジェノヴァの牢獄から釈放されたマルコ・ポーロは、ヴェネツィアに戻って商人としての生活を再開しました。東方での豊富な経験と人脈を活かし、彼は故郷でも成功を収めています。
46歳のときにドナータ・バドエルという女性と結婚し、ファンティナ、ベレーラ、モレッタという3人の娘をもうけました。家族に恵まれた晩年は、比較的平穏なものだったようです。
1324年1月8日、マルコ・ポーロは病気により69歳でこの世を去りました。当時としては長寿での大往生でした。臨終の際、周囲の人々は彼に「東方見聞録の内容は作り話だったのではないか」と尋ねたといわれています。しかし、マルコは「私が見たことの半分も語っていない」と答えたという逸話が残されています。
69歳という当時としては長寿での大往生
13世紀から14世紀にかけての平均寿命を考えると、マルコ・ポーロの69歳という年齢は驚くべき長寿でした。過酷な旅路を経験し、異国の風土病にもさらされたにも関わらず、これほど長生きできたのは幸運というほかありません。
彼の長寿の秘訣は、おそらく東方で身につけた健康法や食習慣にあったのでしょう。中国やモンゴルで学んだ薬草の知識や、バランスの取れた食事法が、彼の健康維持に役立っていたと考えられます。
また、好奇心旺盛で前向きな性格も、長寿の要因だったかもしれません。晩年まで商業活動を続け、家族との時間を大切にしていたマルコ・ポーロは、充実した人生を送ったのではないでしょうか。
商人として成功した晩年の生活
『東方見聞録』の著者として有名なマルコ・ポーロですが、実は彼の本業は最初から最後まで商人でした。東方での経験を活かし、彼は故郷ヴェネツィアで香辛料や絹織物の貿易に従事しました。
東方の商品に関する深い知識と、現地での人脈を持つマルコ・ポーロは、他の商人にはない競争優位性を持っていました。彼が取り扱う商品の品質や真贋を見極める目は、長年の経験によって培われたものでした。
遺産相続の記録によると、マルコ・ポーロは相当な財産を築いていたことが分かります。3人の娘にも十分な遺産を残しており、商人としても成功を収めていた事実は歴史的な資料からも確認可能です。冒険家としてだけでなく、実業家としても優秀だったマルコ・ポーロの多才ぶりが窺えます。
現代に受け継がれるマルコ・ポーロの遺産
マルコ・ポーロが何をしたかを知ると、700年後の現代でも彼の影響が色褪せていないことに驚かされます。人気の紅茶ブランドから映画・ゲームまで、様々な分野で彼の名前が使われ続けています。現代文化における彼の足跡を辿ってみましょう。
マリアージュフレールの人気紅茶「マルコ ポーロ」
マルコ・ポーロの名前は、現代でも様々な形で私たちの生活に息づいています。その代表例が、フランスの老舗紅茶ブランド「マリアージュ フレール」の人気商品「マルコ ポーロ」です。
この紅茶は、中国やチベットの花と果物をブレンドした独特の香りが特徴で、「フレーバードティーの神話」とも称されています。甘くやさしいハチミツのような香りは、まさにマルコ・ポーロが体験した東方の神秘的な魅力を表現しているかのようです。
シックな黒い缶入りのデザインも人気の理由の一つで、贈答品としても多くの人に愛されています。700年以上前の冒険家の名前が、現代でもこれほど多くの人々に親しまれているのは驚くべきことです。
参考:マリアージュ フレール
世界各地に残る記念の場所や建造物
マルコ・ポーロの功績を記念して、世界各地に彼の名前を冠した場所や建造物が存在します。最も有名なのは、彼の故郷ヴェネツィアにある「マルコ・ポーロ国際空港」でしょう。
中国の北京には「マルコ・ポーロ橋」(盧溝橋)があり、これは彼が『東方見聞録』で美しさを絶賛した橋です。現在でも多くの観光客が訪れています。485頭もの獅子の彫刻が施された石橋は、マルコ・ポーロが目にした当時の壮麗な姿を今に伝える貴重な遺構に他なりません。
また、世界各地の博物館や図書館には、『東方見聞録』の貴重な写本が保存されています。これらの写本は、中世ヨーロッパの写字生たちが手作業で複写したもので、当時いかに多くの人々がマルコ・ポーロの冒険談に興味を持っていたかを物語っているのです。
文学・映画・ゲームなどの文化作品への影響
マルコ・ポーロの冒険は、後世の様々な文化作品にインスピレーションを与え続けています。文学作品ではイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』のような現代小説にも影響を与えており、彼の想像力と観察眼の豊かさが評価されてきました。
映画やテレビドラマでも、マルコ・ポーロを主人公とした作品が数多く制作されています。2014年から2016年にかけてNetflixで配信された「マルコポーロ」は、彼の中国での生活を描いた大型歴史ドラマとして話題を集めました。
ゲームの世界でも、マルコ・ポーロは人気のキャラクター、例えば「モンスターストライク」では「鋭気に満ちし宇宙の大商人マルコ・ポーロ」として登場し、多くのプレイヤーに愛されています。
このように、マルコ・ポーロの物語は現代においても、娯楽と学びを両立させる優れた題材として機能しています。映画やドラマ、ゲームなどを通じて13世紀の多様な文化や政治体制に触れることができ、特に若い世代にとって世界史への興味を喚起する重要な役割を果たしているのです。
マルコ・ポーロゆかりの品々を査定のプロが解説
マルコ・ポーロの時代に作られた古美術品や書物は、現代でも高い価値を持っています。『東方見聞録』の古書から、シルクロード関連の工芸品まで、歴史的価値と美術的価値を兼ね備えた品々について、専門的な視点で解説します。
東方見聞録の古書や写本の価値
『東方見聞録』の古書や写本は、古書コレクターや歴史愛好家にとって非常に価値の高いアイテムです。特に15世紀から16世紀にかけて印刷された初期の印刷本は、数百万円から数千万円の価値を持つものもあります。
写本の場合、その製作年代や装飾の美しさ、保存状態によって価値が大きく左右されるのが特徴です。中世ヨーロッパの写字生が丁寧に手書きで複写したものや、美しい装飾が施されたものは特に高く評価されます。
また、異なる言語版の比較研究に使われる写本も学術的価値が高く、研究機関や大学図書館からも重要視されてきました。もし古いヨーロッパの書物をお持ちの方がいらっしゃれば、それが貴重な歴史的資料である可能性があります。
骨董品の価値の見極め方については、以下の記事で詳しく解説しています。
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・骨董品とは?定義や種類、価値の見極め方、古美術品との違いをやさしく解説
シルクロード関連の古美術品
マルコ・ポーロが辿ったシルクロードは、東西文化の交流路として数々の美術品や工芸品を生み出しました。彼の旅路で触れたであろう中国の陶磁器、ペルシャの絨毯、中央アジアの金属工芸品などは、現在でも高い価値を持つ古美術品として取引されています。
特に元朝時代(13〜14世紀)の中国陶磁器は、マルコ・ポーロが実際に目にした可能性のある貴重な品々。青花磁器の初期作品や、当時の宮廷で使われていた白磁などは、コレクターにとって垂涎の的となっています。
また、マルコが『東方見聞録』で絶賛したカイセリ(現在のトルコ)の絨毯も、現代まで受け継がれる伝統工芸品なのは周知の通りです。13世紀の技法を今に伝える手織り絨毯は、単なる敷物を超えた芸術作品として高く評価されています。
中世の金を作る技術や錬金術については、以下の記事で詳しく解説しています。
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・金を作る方法とは?中世の錬金術から現代技術など金の製造の歴史から将来展望を解説
ヨーロッパとアジアの文化交流を示す品々
マルコ・ポーロの時代は、東西文化の交流が活発になった時期でもありました。この時代に作られた品々には、ヨーロッパとアジアの文化が融合した独特の美しさがあり、多くの人々を魅了しています。
例えば、ヴェネツィアンガラスには東方の技法が取り入れられたものがあり、一方で中国の景徳鎮窯ではヨーロッパ向けの特別な陶磁器が製作されました。こうした文化交流の産物は、歴史的価値と美術的価値を兼ね備えた貴重な品々として現代でも愛好されています。
香辛料を入れる容器や、東方の宝石を使ったヨーロッパの装身具なども、この時代の文化交流を物語る興味深いアイテムです。「おたからや」では、こうした歴史的背景を持つ品々についても、専門的な知識をもとに適正な査定を行っております。
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マルコ・ポーロに関するよくある質問

マルコ・ポーロの生涯や『東方見聞録』については、学校の授業で習う基本情報だけでは解決できない疑問が数多くあります。ここでは、マルコ・ポーロについてよく寄せられる質問に対して、歴史的な事実をもとに詳しく回答していきます。
Q. マルコ・ポーロは何をした人ですか?
A.
マルコ・ポーロは13世紀のイタリア・ヴェネツィア出身の商人であり、24年間にわたるアジア旅行の体験を『東方見聞録』として残した冒険家です。マルコ・ポーロの最大の功績は、ヨーロッパ人に対して中国やアジアの文化・技術を初めて体系的に紹介したことにあります。
紙幣、石炭、郵便制度といった当時のヨーロッパには存在しなかった中国の先進技術を伝え、後の大航海時代に大きな影響を与えました。また、日本を「黄金の国ジパング」として世界に紹介したのもマルコ・ポーロの功績です。
Q. マルコ・ポーロは何時代の人物ですか?日本では何時代にあたりますか?
A.
マルコ・ポーロは1254年頃に生まれ1324年に亡くなった、中世ヨーロッパの人物です。日本でいうと鎌倉時代(1185年〜1333年)にあたります。マルコ・ポーロがフビライ・ハンに仕えていた約17年間のうち、1274年と1281年には、日本では「元寇」が起きています。
マルコ・ポーロが仕えていたフビライ・ハンこそ、日本に侵攻した蒙古軍の最高指導者でした。マルコ・ポーロは元寇の計画を間近で見聞きしており、『東方見聞録』にも日本遠征についての記述が残されています。
Q. 『東方見聞録』はいつ、どのように書かれましたか?
A.
『東方見聞録』は1298年頃、マルコ・ポーロがジェノヴァの牢獄に収監されていた時期に執筆されました。正確には、マルコ・ポーロが口述した内容を同房の作家ルスティケロ・ダ・ピサが筆記するという形で作成されています。
マルコ・ポーロは1295年にヴェネツィアに帰国した後、ジェノヴァとの戦争に参加して捕虜となりました。牢獄での暇な時間を利用して、マルコ・ポーロは自らの冒険談を物語作家のルスティケロに語り聞かせ、ルスティケロがそれを文学的に整理して記録しました。原著はフランス語で書かれています。
Q. なぜマルコ・ポーロは『東方見聞録』を自分で書かなかったのですか?
A.
マルコ・ポーロが『東方見聞録』を自分で執筆しなかった理由として、彼が商人であり文筆家ではなかったことが挙げられます。当時の商人は実務的な計算や契約書作成はできても、物語を書く訓練を受けていないことが一般的でした。
一方、同房のルスティケロ・ダ・ピサは『アーサー王物語』などの騎士道物語で知られる作家であり、読者を引き込む文章を書く技術に長けていました。
マルコ・ポーロの記憶に基づく詳細な情報と、ルスティケロの文学的技巧が組み合わさったからこそ、『東方見聞録』は当時の人々を魅了するベストセラーになりました。
Q. マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのですか?
A.
マルコ・ポーロが実際に中国を訪れたかどうかは、現在も歴史学者の間で議論が続いています。『東方見聞録』には万里の長城、箸、茶、纏足といった中国を代表する文化についての記述がなく、懐疑論の根拠となってきました。
ただし、マルコ・ポーロ擁護派は異なる見解を示しています。元朝時代には万里の長城は軍事的意味を失っており注目されなかった点や、モンゴル人の宮廷にいたマルコ・ポーロが漢民族の日常文化に接する機会が限られていた点を指摘しています。
杭州の街並みや揚州の行政機構など、後の研究で正確性が確認された記述も多く、完全な創作とは考えにくいというのが現在の主流的見解です。
Q. マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」と記した根拠は何ですか?
A.
マルコ・ポーロが日本を「黄金の国」と記した根拠として、平泉の中尊寺金色堂に関する伝聞が有力な説の一つとされています。ただし、これは推測であり確定的な証拠はありません。中尊寺金色堂は12世紀に奥州藤原氏によって建立された仏堂であり、内外に金箔が施された豪華絢爛な建物です。
マルコ・ポーロ自身は日本を訪れておらず、中国滞在中に商人や旅人から聞いた情報をもとに日本について記述しました。当時の中国には日本から砂金や金製品が輸入されており、「日本は金の産地」という認識が広まっていたため、マルコ・ポーロの記述は当時の中国での評判を反映したものと考えられます。
Q. マルコ・ポーロはなぜフビライ・ハンに重用されたのですか?
A.
マルコ・ポーロがフビライ・ハンに重用された理由は、彼の優れた語学力と観察眼、そして報告能力にありました。マルコ・ポーロは短期間でモンゴル語、中国語、ペルシア語を習得し、派遣先の情報を詳細かつ興味深く報告する能力を持っていました。
フビライ・ハンは他の使者が簡潔な報告しかしないなかで、マルコ・ポーロが現地の風習や興味深いエピソードを生き生きと語る姿に感銘を受けたとされています。異国出身でありながら皇帝の信頼を勝ち取ったマルコ・ポーロは、外交使節として中国各地やベトナム、インドなどに派遣されました。
Q. マルコ・ポーロは何歳で東方への旅に出発しましたか?
A.
マルコ・ポーロは1271年、17歳の時に父ニッコロと叔父マッフェオとともにヴェネツィアを出発しました。当時としても非常に若い年齢での大旅行であり、彼の人生を決定づける冒険の始まりとなったのです。
マルコ・ポーロの父と叔父は、すでに1度フビライ・ハンを訪問した経験があり、皇帝から「キリスト教に精通した100人の賢者」の派遣を依頼されていました。2度目の旅に若いマルコを同行させたのは、将来の東方貿易を担う後継者として育てる意図があったと考えられています。
Q. マルコ・ポーロはどのくらいの距離を旅しましたか?
A.
マルコ・ポーロが旅した総距離は、全行程(往復)で約15,000キロメートルに及びます。往路は陸路(シルクロード)を使い、復路は海路を選択したため、ユーラシア大陸をほぼ一周する形になりました。
現代の感覚でいえば、日本からブラジルまでの直線距離に匹敵する距離を、飛行機も自動車もない時代に徒歩、馬、船を使って移動したことになります。旅の途中でパミール高原の高山病に苦しんだり、ゴビ砂漠の過酷な環境を乗り越えたりと、冒険であったと考えられます。
Q. マルコ・ポーロの旅は何年間続きましたか?
A.
マルコ・ポーロの東方旅行は24年間(1271年〜1295年)に及びました。内訳としては、往路に約3年半、中国滞在に約17年、復路に約2年を費やしています。マルコ・ポーロ一行がこれほど長期間中国に滞在した理由として、フビライ・ハンが彼らの帰国を許可しなかったことが挙げられます。
有能な外交使節として重宝していたマルコ・ポーロたちを手放したくなかったフビライ・ハンは、何度も帰国の願い出を拒否しました。最終的にはペルシアへの姫君の護送という任務を機に、ようやく帰国が許可されました。
Q. マルコ・ポーロの死因は何ですか?
A.
マルコ・ポーロは1324年1月8日、病気によってヴェネツィアで亡くなりました。具体的な死因については記録が残っていませんが、当時69歳という年齢は中世ヨーロッパでは長寿に分類されます。マルコ・ポーロは過酷な24年間の旅を経験したにもかかわらず、長寿を全うできた稀有な人物です。
東方で学んだ健康法や食習慣が長寿に貢献した可能性も指摘されています。臨終の際、周囲から「東方見聞録は作り話ではないか」と尋ねられたマルコ・ポーロは、「私が見たことの半分も語っていない」と答えたという逸話が伝えられています。
Q. 『東方見聞録』はコロンブスにどのような影響を与えましたか?
A.
『東方見聞録』はコロンブスが西回りでアジアを目指す直接的な動機となりました。コロンブスは『東方見聞録』の熱心な愛読者であり、彼が所有していた写本には366箇所の書き込みが残されています。
コロンブスはマルコ・ポーロが描いた「黄金の国ジパング」に強い憧れを抱いており、1492年の航海もジパングへの到達を目標の一つとしていました。アメリカ大陸に到達した後も、コロンブスは「ジパングはもう少し西にあるはずだ」と信じ続けました。『東方見聞録』がなければ大航海時代の幕開けは遅れていた可能性があります。
Q. マルコ・ポーロが伝えた「紙幣」とはどのようなものでしたか?
A.
マルコ・ポーロが『東方見聞録』で紹介した紙幣は、元朝で流通していた「交鈔(こうしょう)」と呼ばれる政府発行の紙幣です。当時のヨーロッパでは金貨や銀貨が通貨の主流であり、紙切れに価値があるという概念は存在しませんでした。マルコ・ポーロは、桑の木の皮から作られた紙に皇帝の印が押され、それが金や銀と同等の価値を持って流通している様子を詳細に記録しています。ヨーロッパ人にとってこの記述は信じがたいものであり、マルコ・ポーロが「嘘つき」と呼ばれる一因となりました。
Q. 『東方見聞録』の原題は何ですか?なぜ『東方見聞録』と呼ばれるのですか?
A.
『東方見聞録』の原題は不明ですが、後世では『世界の記述(Devisement du monde)』や写本名の『イル・ミリオーネ(Il Milione、百万)』などと呼ばれています。『東方見聞録』という名称は日本独自の呼び方であり、明治時代に日本語訳が出版された際につけられました。
『イル・ミリオーネ(百万)』という別名は、マルコ・ポーロが旅先で見た富や人口について「百万」という表現を多用したことに由来するとされています。また、彼の話があまりに誇大だったため、「百万の嘘つき」という皮肉を込めてつけられた名前だという説もあります。
Q. マルコ・ポーロは日本に来たことがありますか?
A.
マルコ・ポーロは日本を訪れたことがありません。『東方見聞録』における日本(ジパング)の記述は、中国滞在中に商人や旅人から聞いた情報をもとに書かれたものです。
マルコ・ポーロは日本について「中国大陸から東へ1,500マイル(約2,400km)離れた海上の島国」と記述しており、この距離は実際の距離とほぼ一致しています。
日本に上陸していないにもかかわらず、当時入手できた情報としてはかなり正確な記述が含まれていることから、彼の情報収集能力の高さが窺えます。
Q. マルコ・ポーロの『東方見聞録』は何カ国語に翻訳されましたか?
A.
『東方見聞録』は14世紀から15世紀にかけて、ラテン語、イタリア語、ドイツ語、英語など主要なヨーロッパ言語に次々と翻訳されました。現在までに約140種類の写本が発見されており、中世のベストセラーであったことが分かります。
15世紀後半にグーテンベルクによる活版印刷が実用化されると、『東方見聞録』はさらに広く普及しました。印刷本の登場により、王侯貴族だけでなく商人や学者にも読まれるようになり、大航海時代の探検家たちにとって必読書となりました。
Q. マルコ・ポーロが元朝で就いた役職は何ですか?
A.
マルコ・ポーロはフビライ・ハンの外交使節として活動し、一時期は現在の江蘇省揚州の総督(行政長官)を務めたとされています。外国人でありながら中国の地方行政を任されるのは異例の待遇でした。
マルコ・ポーロが揚州総督を務めた記録については、中国側の史料では確認されておらず、真偽が議論されています。ただし、外交使節としての活動については『東方見聞録』に詳細な記録があり、雲南省やミャンマー地域への派遣など、複数の任務に従事していたことは確かです。
Q. マルコ・ポーロの父と叔父はどのような人物でしたか?
A.
マルコ・ポーロの父ニッコロと叔父マッフェオは、ヴェネツィアの有力な商家出身の貿易商人でした。2人はマルコ・ポーロが生まれる前から中東貿易で活躍しており、1260年代にはすでにモンゴル帝国を訪問してフビライ・ハンに謁見した経験を持っていました。
ニッコロとマッフェオがフビライ・ハンから受けた依頼は、「ローマ教皇に書簡を届け、キリスト教に精通した100人の賢者を連れてくること」でした。2人は教皇への書簡を携えてヴェネツィアに帰国し、1271年に若きマルコ・ポーロを伴って2度目の東方旅行に出発しました。
Q. マルコ・ポーロには家族がいましたか?
A.
マルコ・ポーロは1300年頃(46歳頃)にドナータ・バドエルという女性と結婚し、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタという3人の娘をもうけました。24年間の大旅行から帰国した後、ヴェネツィアで商人として平穏な晩年を過ごしています。遺産相続の記録から、マルコ・ポーロは相当な財産を築いていたことがわかりました。
3人の娘には十分な遺産が残され、商人としての成功も収めていたことが確認できます。東方での経験と人脈を活かした香辛料や絹織物の貿易が、彼の財産形成に貢献したと考えられています。
Q. マルコ・ポーロの名前を冠した現代のものには何がありますか?
A.
マルコ・ポーロの名前は現代でも様々な場所や商品に使われています。最も有名なのはイタリア・ヴェネツィアの「マルコ・ポーロ国際空港」であり、彼の故郷に位置する主要空港として年間数百万人が利用しています。
商品としては、フランスの老舗紅茶ブランド「マリアージュ フレール」の人気フレーバードティー「マルコ ポーロ」が世界的に有名です。中国やチベットの花と果物をブレンドした独特の香りが特徴で、東方の神秘を表現した紅茶として人気です。ゲームや映画などのエンターテインメント作品にもマルコ・ポーロを題材としたものが多数存在します。
まとめ
マルコ・ポーロという一人の青年が、700年以上前に成し遂げた壮大な冒険は、現代の私たちにも多くのことを教えてくれます。異文化への好奇心、困難に立ち向かう勇気、そして何より「未知の世界への憧れ」という人間の根源的な欲求を体現した人物だったのです。
彼が記録した「黄金の国ジパング」の描写は、金という貴金属が持つ普遍的な魅力を物語っています。13世紀から現代まで、金は人々を魅了し続ける究極の価値保存手段として機能し続けてきました。
現代を生きる私たちも、マルコ・ポーロのように新しい世界に目を向け、価値あるものを見極める眼を持ちたいものです。もし身近に眠っている古い品々や貴金属があれば、それらもまた歴史の一部として、あるいは資産として、思わぬ価値を秘めているかもしれません。
「おたからや」での「金」の参考買取価格
「おたからや」での「金」の参考買取価格は下記の通りです。
2026年02月05日09:30更新
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※上記の買取価格はあくまで参考価格であり、市場の動向、
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