「ダイヤモンド・キング」の男

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「ダイヤモンド・キング」の男

とある人物を指す名称「ダイヤモンド・キング」。とある男がそう呼ばれるようになった理由とは。またその裏には何があったのでしょうか。今回はその類まれなる手腕で王座を手にした男の秘密をご紹介していきましょう。

アーネスト・オッペンハイマー

アーネスト・オッペンハイマーは、鉱山事業を中心とするダイヤモンド販売会社・デビアス社の社長です。1880年ドイツの商人一家に生まれ、17歳でダイヤモンド・ブローカー社へ入社しました。今回は、彼の成功の軌跡をご紹介します。 

 

青年時代

アーネスト・オッペンハイマーの父エドゥアルト・オッペンハイマーはたばこ販売の商人でした。兄弟も後に商人として活躍しています。このような環境があって、幼い頃から商取引の現場に触れていたことでしょう。

オッペンハイマーは兄弟の所属するダイヤモンド社に勤めるべく、16歳でロンドンへ渡ります。ダイヤモンドの仕分けを現場で学び、ややあって社内一の技術者になりました。社長からは勤勉さを賞賛されていたようです。ロンドンでの人脈は、後の活躍の助けとなります。 

 

アングロ・アメリカン

1912年に会社の指示で南アフリカのキンバリーへ赴きました。そこから15年間ダイヤモンドの仕分け作業に従事しながら、キンバリー市長を務めます。1917年からはアメリカ企業と共同で金鉱脈を開発しました。

第一次世界大戦が終わる頃、オッペンハイマーはデビアス社の一員になって働いていました。その頃、東西アフリカでは所有していた探鉱権を取り上げられてしまいます。その隙に探鉱権を地下資源採掘企業の「アングロ・アメリカン」へ移しました。金の独占に成功したのです。 

 

ダイヤモンドラッシュ時代

1920年以降アフリカでは、次々にダイヤモンド鉱脈が見つかります。これが「ダイヤモンドラッシュ」と呼ばれた現象です。そして鉱床の発見が増えることで、ダイヤモンドの供給量は需要量をはるかに超えました。そこで余りある供給に伴う値崩れから多大な損害を生まないために、南アフリカの主要な生産者へ共同出資を呼び掛けたのです。そこでできたのがダイヤモンド・コーポ―レーションでした。

1926年オッペンハイマーはついにデビアス社の重役となり、1929年には会長へ上り詰めました。 

 

成功の理由

オッペンハイマーは、一代にして南アフリカの金鉱やダイヤモンドを掌握しました。彼が成功したのはその経営手腕か、勤勉さか、人望か、はたまた各方面への働きかけでしょうか。その裏側にあった出来事ご紹介していきます。 

 

人望

1902年、オッペンハイマーは南アフリカへ初めて赴きました。南アフリカを訪れた理由は、アムステルダムのダイヤ市場を支配していたダンケルスビューラーの支持があったからです。当時若かりし彼に大きなバックがついていたことは、彼の能力・人望が大きく買われていたと言っても過言ではありません。また後のアメリカ大統領であるハーバート・フーバーが友人であったことも知られています。これらはロンドン時代に広げた人脈でした。

 

手際

オッペンハイマーは南アフリカの主な生産者に呼び掛けてダイヤモンド・コーポーレーション、南アフリカの生産者や政府とダイヤモンド・プロデュース・アソシエイション(DPA)を創立しました。DPAの下で、ダイヤモンド・コーポ―レーションが唯一の生産者であるという立場を得たのです。DPAによって、独占を強固にしました。

ダイヤモンド・コーポ―レーションが市場を独占したことで、彼はダイヤモンドの販売体制をデビアスグループのみで完結させました。この仕組みにより社が恐慌や価格の暴落をコントロールし、ダイヤモンドの市場価値を守ることが可能になったのです。

また成功裏側には、オッペンハイマーが利益のために戦争を利用するなどの仄暗い側面も存在しています。

 

まとめ

アーネスト・オッペンハイマーは、「ダイヤモンド・キング」という異名を持っていました。彼の栄誉はダイヤモンドのみで培われたのではなく、南アフリカの快挙も大きかったのです。

 

その異名には、彼の手腕への賞賛や狡猾さへの畏怖の意味があるのかもしれません。

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