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戦国武将と金のトリビア!
武田信玄と金山衆の関係

武田信玄の軍資金
の源となった豊かな金山

武田信玄は今の山梨県にあたる甲斐を統治した戦国大名です。武田信玄は最強とたたえられた軍を率い甲信地方に領土を拡大していくとともに、堤防や道路を建設するなど内政にも力を入れていました。当時は織田信長がその軍才を恐れたと言われています。そして現在でも最も名前が知られた戦国大名の一人でしょう。

甲斐金山の重要性

武田信玄は甲斐の発展には領土拡大が不可欠と考えていたため、亡くなる直前まで戦の連続でした。ただ昔も今と同じように戦には大金が必要です。そんな武田信玄の財政を支えていたのが領土内の金山。代表格の黒山金山を始め金山金山や湯之奥金山など甲斐には沢山の鉱山があり、戦国時代から江戸時代の初期まで金を産出し続けました。そして金山で活躍し武田信玄を経済的にも軍事的にも支えたのが金山衆です。

武田信玄と金山衆の関係

金山衆は金山の経営や採掘にあたる山師たちにつけられた呼び名です。実際に鉱山で金の採掘にあたっていたのは鉱夫たちで、金山衆は彼らを使いまとめる立場でした。またこの地域の金山衆は山師であると同時に武士でもあり、武田氏と主従関係がありました。

金山衆とその役割

甲斐の金山衆は主に金の採掘や商業活動を行っていましたが、戦の際には武田信玄の軍勢に参加しました。金山衆の持つ金の採掘技術は戦の際の城攻めに役立ち、戦の中で功績をあげた金山衆には武田信玄からほうびが与えられたとされています。また戦いだけでなく内政においても道路や堤防の整備に金山衆の技術が生かされました。

現在残る遺跡の状況から最盛期の黒川金山には千人ほどの住民がいたとされています。武田信玄は金山衆を大切に扱い、彼らに通行税免除などの特権を与え専用の遊郭も用意しました。ただ武田信玄亡き後、息子の勝頼の代に甲斐武田氏は滅亡してしまいます。その後甲斐を統治したのは徳川家康ですが、彼は武田時代にも金山開発に関わった大久保長安を徴用し黒川金山を再生。金山衆に以前と変わらない特権を与えたと言われています。

黒山金山での採掘は江戸時代も続きましたが、産出量が最も高く賑わいを見せていたのは戦国時代です。徳川綱吉の時代に廃坑になりその後明治時代や大正時代に再開が検討されましたがいずれも失敗に終わっています。

金山衆が支えた武田信玄の貨幣制度

武田信玄は日本で初めて貨幣制度を整えた人物でもあります。この貨幣制度で用いられたのは甲州金という金貨で、武田信玄亡き後も江戸時代後期までこの地で利用されていました。この甲州金の製造に使われたのはもちろん金山衆がもたらす黒川金山の金です。豊富にとれる金があったからこそ貨幣制度を広く普及させることができたのでしょう。

戦国時代は全国共通の貨幣はなく各地で様々な金貨が使われていましたが、それは使われている金の量がそのまま貨幣の価値になるものでした。一方甲州金は金貨に価値が刻印され金の量に関係なく刻印で価値が決まる今のお金に近い仕組みがとられました。時代劇でよくお金を数える単位に「両」が使われますが、これは甲州金に由来しています。

 

まとめ

金山衆は武田信玄の時代に最盛期を迎えた甲斐の金山を仕切っていた集団で、優れた採掘技術を有したのはもちろんその技術を戦にも応用できる優秀な武士たちでもありました。財政と軍事両方で重要な役割を果たしており、武田信玄の活躍は金山衆なしではありえなかったと言えるでしょう。そして黒山金山には今も武田信玄の埋蔵金が隠されているとの伝説もあります。

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