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CHANELの知られざる背景と、
時代を超えるファッション

ガブリエル・シャネルは、CHANELを生み出した偉大なファッションデザイナーであり、
今では身近なファッションの多くがCHANEL発祥のアイテムです。
現在も大きな影響を与えるCHANELの誕生秘話や、ファッションの数々について紹介します。

ガブリエル・シャネルの
少女時代と開業の背景

本人の口から、その生涯について語られることはあまりありませんでした。なぜなら、背景には厳しい環境で育ったことが知られているからです。
1883年、シャネルはフランスのソーミュールで5人兄弟の2番目として生まれました。シャネルが12歳になった時、母親が結核で亡くなり、さらには行商人の父にも面倒を見てもらえなかったため、姉と一緒に孤児院に預けられることになったのです。孤児院では6年間裁縫を学ぶ機会があったこともあり、18歳で孤児院を出ると衣服の修繕の仕事に就きました。また、歌手の夢を抱いていたシャネルは、キャバレーで働きながらオーディションを受け続けます。この頃から「ココ」と呼ばれるようになったと言われています。しかし、オーディションはどこも落選してしまったことから、歌手になることを断念します。
その後シャネルは、再び裁縫の仕事に就きます。するとその技術が認められ、1910年には帽子店の「シャネル・モード」を開店します。その帽子の噂を聞きつけたフランスの女優たちが買い求め、CHANELはたちまち有名になっていきました。
1912年にはドーヴィルに初めてブティックをオープンさせます。そこで生み出したのが、男性向けの肌着とされていたジャージーです。CHANELはここであえて女性向けのドレスを、ジャージー素材で作りました。フランスのビアリッツに初めてのクチュールハウスを1915年にオープンし、オートクチュール・コレクションでそのジャージー素材のドレスを発表すると、大きな注目を集め、女性のライフスタイルに革命を起こしました。
そこで勢いは止まらず、ついにカンボン通り31番地にブティックをオープンさせます。今でも31番地にはCHANELのブティックとアトリエ、サロンが立ち並んでいて、その影響力は健在です。
1921年には、CHANELの代名詞でもある香水の「No.5」を発表。マリリン・モンローなどの有名人が愛用したことで、ファッションブランド・そして香水のブランドとしての地位はますます高まっていきました。

儚きシャネルの恋と
自立した生き方

シャネルは生涯独身でしたが、著名なヨーロッパの富豪など、複数の著名人と恋人の関係も築いていました。
恋人として最も有名なのは、イギリス人の実業家である、アーサー・ボーイ・カペルです。カペルはカンボン通りのブティックの設立に資金面で協力していました。シャネルのデザイナーの才能にいち早く目を付けており、シャネルの人生には欠かせない人物です。歌手の夢よりファッションデザイナーになることを勧めたきっかけを作ったのも彼でした。好意はあったものの、アーサーには身分上シャネルとの結婚を諦めざる負えず、別の貴族の女性と結婚します。しかしその後も連絡を取り合っていて、カペルが交通事故で亡くなった際には弔問に駆けつけるほど親しい仲だったそうです。
このカペルとの出会いがなければ、CHANELがファッション界で名をはせることも、私たちが身に着けている数多くのファッションが生まれることもなかったといえます。カペルとの恋人としての関係は、CHANELのファッションを支え、原動力になっていたことでしょう。
多くの恋愛遍歴でも、ドミトリー大公との出会いは香水の大ヒットをもたらしました。シャネルは大富豪となり、ブランドを拡大させることが出来たのです。一方で、ドミトリー大公は亡命していたロシアの貴族だったこともあり、シャネルに別れを告げました。
そのほか、資産家エティエンヌ・バルサンとはキャバレー時代に知り合い、ともに生活を送ったことが知られています。
富豪たちとの恋愛はどれも成就せず、苦悩を重ねてきたシャネル。しかし、その生き方は世界中の多くの女性を励ましてきました。当時、女性の経済的な自立は夢のようでしたが、それでも自分の人生を好きなように生きて、恋人との関係を築き、好きな服を身に着けました。そんなシャネルの生き方に世間は憧れ、自立した女性を目指すべく社会的な潮流になりました。その生き方は、若い時だけでなく、高齢になってからもずっと続いていました。その挑戦的で常識を覆す生き方は、今を生きる人たちにとってもなお、多くの人を魅了し、影響を与え続けています。

第二次世界大戦を乗り越え
進化したCHANEL

「No.5」で記録的なヒットを生み出したCHANELでしたが、第二次世界大戦により人生を大きく翻弄されたことが知られています。拠点のあるフランスでは、第二次世界大戦により国内の不況が続きました。CHANELも例外ではなく、労働者のストライキもあったことで、CHANELの経営は悪化の一途をたどりました。そこで、本店である31番地を除く多くのブティックを閉店することを決め、多くの従業員を解雇するところまで追い込まれました。
その当時、フランスはドイツ軍によって占領されていました。その後、ドイツ軍は降伏しましたが、CHANELにもその影響は及びました。シャネルはドイツ軍の幹部であるヴァルター・シェレンベルクと交際していたことが公になったのです。敵国であるドイツ人との交際は、フランス国民からすれば非難の対象になり、シャネルはスイスに亡命することになりました。
国内外からの批判を恐れたシャネルは、デザイナーとしての活動に見切りをつけ、業界を一旦去ることになりました。スイスでの亡命生活は15年にも及びました。
しかしその後、再びパリに戻り、71歳の時ファッション界での復活を果たしました。そこで、ブランドを代表するショルダーバッグ「2.55」が登場します。「2.55」はゴールドのチェーンで、キルティング生地により作られています。ショルダーバッグで両手を自由に使えるようになり、ますますシャネルの機能性に注目が集まりました。
そこで、ノーカラーのボックス型のツイードジャケットに、CCロゴの金ボタンを付けた「シャネルスーツ」が登場します。スカートがタイトだったため、機能的で働きやすいことが特徴でした。シャネルスーツは戦後のアメリカで大流行しました。1957年には、つま先にブラックのレザーをあしらったバイカラーシューズが登場。締め色である黒色が足を小さく見せ、ベージュ色の靴本体が脚を長く見せるデザインだったことから、シューズも大ヒットしました。
このように、第二次世界大戦を乗り越えたシャネルは、輝かしいファッション界での復帰を果たしたのです。

CHANELの代名詞となった
ファッションの数々

CHANELのファッションにおける功績は、時代を超えて身近なアイテムとして残り続けています。
例えば、リトルブラックドレス。黒と言えば喪服という常識がありましたが、それをフォーマルな場面で使えるようにしたのが、CHANELでした。シンプルなAラインのワンピースであっても、ゆとりを持たせ軽やかに仕立てたリトルブラックドレスは、気軽でかつフォーマル過ぎない抜け感でした。当時コルセットを装着し、フリルなどの装飾があるドレスが一般的でしたが、その常識を覆したこのドレスは機能的な点で関心を集めました。
シャネルスーツなど、動きやすさを追求したCHANELのアイテムの中で、最も画期的なスタイルはパンツスタイルです。パンツスタイルは男性が履くのが一般的でした。しかし、第一次世界大戦以降に工場で女性が働くようになり、動きやすい恰好が求められました。そこでCHANELは、おしゃれとしてパンツスタイルを考案したのです。
バッグと言えば、ダイヤ柄でキルティング生地のマトラッセチェーンバッグが有名です。発売当初は革製のストラップでしたが、のちにチェーンとなり、定番のデザインとなっています。
そして、「No.5」の香水は代表的なアイテムです。マリリン・モンローが愛用していた香水は、人工の香料を初めて使用したことでも知られています。調香師であるエルネスト・ボーがサンプルを作った中で、シャネルが選んだのは5番目の香りだったことから、この名前が付けられているという話があります。
洋服や香水のほかにも、メイクアップ商品でもその知名度は健在です。アイシャドウの「レキャトルオンブル」、口紅の「ルージュココ」は代表的なアイテムとなっています。
また、宝飾品であるコスチューム・ジュエリーも取り入れています。1924年にはイミテーションパールや金メッキを施した大ぶりなデザインの「ビジュ・ファンデジ」を扱い始めました。高価な宝石のような輝きのあるジュエリーは、大衆や著名人の支持を得ました。
このように、CHANELの生み出した数々のファッションは、今もなおブランドを象徴するアイテムであり、私たちのファッションで生き続けているのです。

進化を続ける
CHANELのアイテム

87歳でこの世を去るまで、ファッションデザイナーとして頭角を現したシャネル。彼女が生み出した多くのアイテムは、今なお進化を遂げています。
3代目の専属調香師である、ジャック・ポルジュは、香水を次々と生み出しました。中でも、「ココ」「ココ・マドモアゼル」「アリュール」や「ブルードゥ・シャネル」といった香水はポルジュにより手掛けられました。「ココ」の広告には、イネス・ド・ラ・フレサンジュが初めて起用されたことで注目を集めました。また、「ココ・マドモアゼル」は2001年にポルジュが調香した香水で、ケイト・モスが広告を飾ったことで有名です。
そして、1987年には初めて腕時計の「プルミエール」が登場します。プルミエールは八角形で、CHANELの「No.5」から着想を得て作られたといわれています。1990年代には5連の真珠をブレスレット上に仕立てた「マドモアゼル」を発表。さらに2000年に入るとスポーツ用の時計も開発され、黒いセラミックの「J12」が誕生しました。2003年には白色のJ12が発売され、「カメリアコレクション」や「ショコラ」「1932」などが次々と発表されました。近年では「コードココ」が出されたのに加えて、2019年にはジュネーブにおける時計のグランプリでJ12のホワイトモデルが受賞しています。J12は多くの種類が登場しており、スイスの製造会社であるKENISSI製であることが特徴です。
時計に加えて、化粧品も進化を遂げています。2006年には鮮やかな発色が特徴の口紅「ルージュ・アリュール」が発表されました。ルージュ・アリュールは口紅の下部にCHANELのロゴが現れるように刻印されている斬新なデザインとなっています。
ジュエリーは、「インスピレーション」というキルト生地の様なデザインを施した指輪などのコレクションが有名です。また、Cの形をしたネックレスなど、ブランドの象徴的なデザインのジュエリーを多く展開しています。
以上のように、CHANELのアイテムはシャネル亡き後も進化を遂げているのです。

まとめ

シャネルの波乱万丈な生涯によって培われたファッションは、ファッション界に大きな影響を与え続けています。ブランドを象徴するCマークや数々のCHANEL製品は、自立した女性としての生き方を表現していて、時代を超えて愛されるファッションアイコンです。魅力あふれるCHANELのアイテムをぜひご検討頂ければと思います。

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