江戸幕府の金山開発の礎を築いた大久保長安

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江戸幕府の金山開発の礎を築いた大久保長安

徳川家康の家臣として日本の重要な金山経営に関わった大久保長安は、江戸幕府の金収入の基盤を作った戦国時代から江戸時代を生きた武将です。武田信玄に才覚を見出されて、徳川家康の元で才覚を発揮した生涯を紹介していきます。

金山開発の功績が江戸幕府の財政の要となった大久保長安

元々能楽師の家に生まれた大久保長安は、才能を評価され武田信玄が武士に取り立て金山開発の知識を学んでいました。徳川家康にも秀才ぶりが評価され、佐渡銀山や石見鉱山の開発を担当し徳川政権で出世街道に突き進みます。金の価値を知り、金に携わった人生大久保長安の人生を見ていきましょう。

優秀を見出されて武田家家臣へ

大久保長安は代々猿楽師(現在の能)を家業にしている家の次男として生まれ、祖父は奈良の春日大社で奉仕する役割をしていました。父の代になり甲斐国へと流れ着き、当時の大名武田信玄のお抱え猿楽師として仕えるようになったところから武田家との主従関係が始まります。

息子大久保長安が跡を継ぎ非常に賢かったため、猿楽師にはもったいないと考えた武田信玄は家臣へと取り立てます。譜代家臣の土屋昌続に仕えるようになり、姓も土屋と名乗りました。この時、任じられたのは黒山金山での税務担当と、後に徳川家康の元で金山担当者となる知識の礎となります。また、武田領には多くの金銀の鉱山に恵まれており、黒山金山だけでなく各地の鉱山開発にも携わり、武田家の財政を支えました。

しかし、武田家は長篠の戦いで敗戦すると次第に衰退していき1582年に滅亡してしまいます。戦後、大久保長安は能力を認められて徳川家康の家臣として働くようになりました。

天下人徳川家康の元で二大派閥を築く

この頃になると徳川家康に「大久保」姓を与えられ大久保長安として仕えるようになります。家康に仕えた当初は、土木工事や土地台帳の作成に尽力しました。次第に実力を認められた後は、武田家時代に学んだ金山や銀山などの知識を使って、徳川領内にある金山の生産性が高くなります。

目覚ましい活躍から大久保長安は家康に寵愛され、さらに諸大名や家臣との幅広い人脈を生かして出世街道に突き進み、ついには「天下の総代官」と呼ばれるまでになりました。大久保長安は金山開発の功績と人脈から一大派閥を築くようになり、徳川家家臣の二大派閥となる本多正信と張り合うようになるまでになります。

 

金山や銀山の開発に尽力し出世した大久保長安

佐渡金山や石見銀山など日本有数の金山や銀山の開発に尽力し、江戸幕府の鉱山開発の基盤と財政基盤の両方に大きく寄与しました。大久保長安が、江戸幕府に残した金山開発の功績と晩年から死後に訪れてしまった悲劇を紹介していきます。

武田家で学んだ金山の知識を生かして徳川家で出世

関ヶ原の戦い後、佐渡金山や生野銀山の検分役や接収役を務め、1601年には甲斐奉行などの職につき、徳川政権の鉱山開発に関する中心人物になりました。

大久保長安が導入した制度の中に「御直山制」と「荷分け法」があります。「御直山制」は、幕府の資金で鉱山を開発し、直接管理をして幕府に金の貯蔵を増やしました。また「荷分け法」は採掘された採掘高を決められた一定の割合を元にして幕府と採掘者の間で分ける法律です。御直山36ヶ所を定めて幕府に一定の利益を与えながら、幕府が直接管理をする制度を確立しました。

金銀開発のノウハウを持っていた大久保長安は、金銀経営策を次々に打ち出し佐渡金銀山は最盛期を迎えています。労働者10万人以上と坑道が300箇所を超え、江戸幕府の財政に大きく寄与しました。

金山開発に尽力した貢献者に起こった晩年から死後の悲劇

しかし、晩年は金山の収穫量が減少し、家康から遠ざかるようになり、多くの役職を罷免されていきます。1613年に69歳の時家康の配下となってからは、目覚ましい活躍を続けたその生涯に閉じました。

死後、長安の横領を疑われて調査を拒否した大久保家は、嫡男から七男まで全員が切腹となり、大久保長安は墓から掘り出された上に磔になるなど家康の怒りが凄まじかったことも伺われます。世に大久保長安事件と呼び、金山開発に力を注いだ人生は、後世に暗い影を落とす結果となりました。

 

まとめ

大久保長安は、金山に多大なる影響を与え江戸幕府の礎だけでなく、日本における金開発の礎を築きました。金山開発により天下の財政の基盤を作った大久保長安は、立身出世の象徴でもあります。

大久保長安は、日本各地の金山運営の基盤を作り上げましたが、後年は不遇な扱いを受けてしまい、子供たちは切腹と暗い影を落とす形になってしまいました。

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