宝石・ジュエリー
2021年11月3日

江戸時代以降に日本ダイヤモンド界黎明期をもたらしたキリスト教

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江戸時代以降に日本ダイヤモンド界黎明期をもたらしたキリスト教

宝石店に陳列されているダイヤモンドに、いつか身につけてみたいと憧れる人も多いでしょう。今でこそ街中で購入できるダイヤモンドですが、どのように日本社会に浸透していったのでしょうか。日本におけるダイヤモンドの歴史をご紹介します。

キリスト教が江戸時代にルビーの指輪を持ち込み日本のジュエリー文化がスタート

17世紀初め、江戸時代の日本ではキリスト教の布教制限と鎖国が完成しつつありました。そんな中、仙台藩主伊達政宗は、仙台藩内でのキリスト教布教と引き換えに、慶長遣欧使節と呼ばれる使節団をヨーロッパに派遣しました。なぜ鎖国の最中に海外へ使節団を派遣したのでしょうか。正確なことはわかっていませんが、1611年12月に仙台藩を襲った慶長大津波からの復興を目指し、貿易によって藩を豊かにしようとしたのではないかと言われています。伊達政宗に命じられ、キリスト教宣教師であったルイス・ソテロとともに洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を渡ったのは、伊達政宗の家臣、支倉常長(はせくらつねなが)という人物です。支倉常長は、ローマやメキシコ、スペインを旅し、1620年に帰国しました。その時に持ち帰ってきた品には、国宝認定されているものもあり、歴史的に重要な品とされています。ルビーの指輪も持ち帰ってきた品のひとつで、支倉常長は日本で初めてジュエリーを身につけた人物と言われています。

日本ダイヤモンド界黎明期をもたらした浜田彦蔵が外国人との社交で得たダイヤモンドのネクタイピン

日本でのダイヤモンド界における黎明期が始まるきっかけを作ったひとりとして、浜田彦蔵(はまだひこぞう)という人物が挙げられます。浜田彦蔵は、1837年に播磨(現在の兵庫県)で生まれました。幼いころの養父の影響で船乗りに憧れていた浜田彦蔵は、13歳のときに栄力丸に乗って江戸への船旅に出ます。不幸なことに江戸からの帰りに嵐に遭ってしまい、太平洋を50日以上漂流することになったのです。幸いアメリカ商船に救助されましたが、サンフランシスコに到着し、アメリカに帰化することになりました。ジョゼフ・ヒコと名前を改め、アメリカでの生活は9年にわたりました。その後、日本に帰国し、ジョゼフは開国した日本で通訳として活動したほか、1864年には日本で初めての新聞を発行した人物でもあるのです。そんな浜田彦蔵の自伝に、1851年、サンフランシスコでダイヤモンドの入ったネクタイピンをもらった、という記述があります。ダイヤモンドは、幼かった浜田彦蔵が海を渡った賜物と言えるでしょう。

社交界やセレブのパーティーで用いられるダイヤモンドジュエリーは買取で高額査定

明治時代以降、近代化が進むと宝石業が盛んになり、宝石は富裕層だけでなく一般庶民にも手の届くものになっていきました。現代において、市場に出回るダイヤモンドの価格は4Cで決まるのです。4Cとは、カラット(重量)、カラー(色)、クラリティー(透明度)、カット(技術加工)を表します。カラットはダイヤモンドの重量のことで、1カラットは0.2グラムです。カラットは大きければ大きいほど高額です。カラーは無色から黄色っぽいものまであり、無色に近いほどよいとされています。クラリティーについては、内部の不純物のようなもの(インクルージョン)が少ないほど良質です。宝石の輝きを決めるカットは、エクセレントからプアまでの5段階で評価されます。社交界やセレブのパーティーには、華やかなドレスに大ぶりで透き通った宝石があしらわれたネックレスや指輪、イヤリングが欠かせません。着用されるジュエリーは、ダイヤモンド価格が最高ランクの4Cとなることもあり、ブランドのものであればさらにブランド価値も加わり、非常に高額な価格で取引されるでしょう。

まとめ

江戸時代、キリスト教布教と引き換えに日本にもたらされたジュエリー文化。高価で、とっておきの時に着けたい宝石類は、外国人との交流の中で偶然手に入れた贈り物だったのです。今でこそ様々な大きさや色を選んで街中で購入できるダイヤモンドですが、昔は上流階級の人々がその富を誇示するために着けているもので、一般庶民にはとても手が届かない代物でした。しかし、上流階級にせよ一般庶民にせよ、長い歴史の中でもこれだけ多くの人々を惹きつけてきたのは、やはりその美しさがあったからでしょう。

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